シェアハウス#910(ここのつ島)が東逗子の丘の上に完成したのは2015年の11月。
つまり、シェアハウスを運営し始めて10年目を迎えたわけですねぇ。(あっという間だったなぁ。。。)
“拡大家族として暮らし合うというシェアハウスを運営していて「嬉しいこと」はたくさんあるんですが、今回は「悲しいこと」について。
それはですね、ズバリ「住人さんが910を退去を決めて出ていくこと」
これに尽きます。
これがもう悲しいと言うか、本当に寂しすぎるわけ。
でもね、これを言うと、みなさん口を揃えて「シェアハウスなんだから当たり前なんじゃないの?」とおっしゃいます。
そもそも退去は終の別れじゃあるまいし。
でも、始める前の私は、この「別れ」が自分にもたらすインパクトが想像できていなかったんです。全くと言っていいほどに。
今でも鮮明に思い出せるのは、初めての住人さんが退去するにあたって荷物をまとめて玄関を出ようとしているシーン。
その方は、「またね、また来るね」と非常に気楽な感じで玄関のドアから出て行こうとしているんですけど(そりゃそーだ)、当の私は、(実は)言葉にできないほど寂しくて。
でも瞬時に私は平気なふりをしたんです。(正確には、寂しい気持ちに気づく前にその気持ちを封印した→平気なふりができた、かな)
そしてそれ以来、私は、住人さんが退去する度に自分の寂しさを見ないようにし続けたんですよね。
そうすると何が起きるか。
当然、誰も私の本当の気持ちには気づかないので(当の本人も気づこうとしていないんだけど)、「ここのさんは(誰かが退去しても)案外平気なんだな」という認知が生まれるんです。
同時に、私の心の深いところにある“寂しさ“や”悲しさ“はどんどん(むしろ加速しながら)置いてきぼりになっていくんです。
何と言う残念なループでしょう・・・。
じゃあ、どうして私は自分の本当の気持ちを認めようと(見ようと)しなかったのか。
・認めちゃうことで、もっと辛い気持ちになる気がするから?
・過去のつらかった体験がフラッシュバックするような気がするから?
・認めちゃうと、それを何とかしなきゃならないから?(そして、何ともできなくなったらますます辛くなるから?)
私の場合は、上記に加えて“弱い自分”を曝け出すことになる、“大丈夫な自分”が崩壊してしまう。
そう思っていたような気がします。
では、オーナーだったら”大丈夫”でいないといけないのか?寂しいことを寂しいと感じてはいけないのか?
よく考えると、ちゃんちゃらおかしいこの思い込みも、「大丈夫な自分」を演じた歴史が長かった私にとっては当たり前すぎる「鎧」だったように思います。
ちなみに私は、その後最大級の「耐えられないほどの寂しさ」に直面し、自分の気持ちを認めざるを得ない状態になり、鎧が脱ぎ捨てられるに至ったのですが(この話はまた後に)。。。
そんな今、改めて思うことは、
寂しいと感じることは、決して悪いことではないということ。
むしろ、一見ネガティブと思える感情も、それを認めると人はホッとするということ。
その感情を安心して感じて良いということで、(不思議なことに)むしろ嬉しい、幸せな気持ちにもなれること。
さらに、大事な人に自分の気持ちがわかってもらえている状態にあると、人はどんどん素直になっていけること。
自分の感情につながることは、それがたとえどんな感情であれ、“癒し”なんですね。。。本当にすごいことです。。
ちなみに、自分の気持ちにつながる一番の近道は「あるがままの状態を人に判断なく聴いてもらう」こと。
自分の気持ちを丁寧に聴いてもらう場(傾聴の学び舎)を作り続けていますので、良きタイミングでぜひご参加ください。