5月、初夏の風が心地よい季節となりました。みなさんはどんな連休をお過ごしですか?
さて、今月のお便りもまた母の話です。
正直「またか。。。」と思いつつ(汗)、今回はひとつの“完結編”として読んでいただけたらうれしいです。

先月、母が四十九日を終え、父のお墓に入りました。

生前、母は父ととても不仲で、私はずっと「母は死んでも父と同じお墓に入りたくないのでは?」と心配していました。
とは言え、父が他界して20年が経つうちに、母は父とのことを前向きに振り返るようになっていたようで、「自分にも悪いところがあった。もっと優しくすればよかった」など、そんな言葉が聞かれるようになっていたのです。

母のこの反省は私にとって意外であり驚きで、「しみじみ、人は変わっていくものなのだ、、、」と感慨深く思ったものでした。とはいえ、本音はどうなんだろう?と、晩年、どんな風に埋葬されたいか、勇気を出して(←かなり出したw)母に聞いたことがあったんです。

そしたら、かつては「イタリアの海に散骨して」とか言っていた母が「もうどうでもいいわ」って。。

それを聞いた私は、「どうでもいいってどういうこと? 諦め? 面倒くさい? そんな大事なことを、そんなふうに投げやりに決めてしまっていいの?」と戸惑い、もやっとした気持ちになったのでした。

ただ、その後も続いた母の父へのささやかだけど思いやりある言動を聞くにつれ、「本当にどうでもいいのかもしれない」と受け入れるようになっていきました。

今から思えば、あの「どうでもいいわ」というそっけない言葉の向こうには、長い時間をかけてたどり着いた静かな境地――諦めや投げやりではなく、手放しや赦しのような、穏やかな心の在りようがあったのかもしれません。

結局、父だけだったお墓に、今は母も並んで納まっています。

母が長い年月の中で少しずつ変化していったことが「納骨」という一つの区切りの場面で、静かに形になっていったこと。

「結局、こうなったか・・・」という感慨深さとともに、しみじみと「変化」を受け取っている自分がいます。

幼い頃、両親の不仲に心を痛めていた私、母に幸せになって欲しくて頑張ってきた私。
言ってみれば、「母の不幸」をドライブエンジンにして生きてきた私でした。

でも、「過去に起きたこと」を「今も起きている真実」として見ていたのは、ほかでもない自分自身。
目の前で起きていた出来事をありのまま受け取ろうとせず、どれだけ私の思い込みや解釈によって歪めてきたのだろうかと思うと、驚くばかりです。

人は変わる。
時間をかけて、見えないところで、静かに。でも、確かに。
目の前の人や起きていることを、解釈や思い込みを加えず、ただそのまま受け取ることの大切さ。
簡単なようでとても難しい、でもとても大切なことだと受け取っています。

季節は春から初夏へ。
新緑の若葉を見ると、命は常に変化を起こし続けていることに気づかされます。
今日の空の青さ、雲のかたちも、同じものは一つもないですね。

今日という日、今日の出会いを、大切に味わっていきたいです。