910では、誰かが誰かにお茶を淹れる光景が当たり前に見られるんですが、日常生活の中で誰かが自分にお茶を淹れてくれること。

それって、何気なく見えて、ものすごーーーく大切で素敵で、その人の心をこちらに向けてくれていること、なんですよね。

連休に奈良の実家に帰省したアキラさんが、

「親にとって子どもはいくつになっても”子ども”なようで、『お茶飲む?』『コーヒー飲む?』と、いつも飲み物が出てくる」と。

私はそれを聞きながら、娘や息子が帰省した時の自分の行動を振り返ってうなづきながら、ふと、私の母が私に最後にお茶を入れてくれたのは一体いつだったっけ?と思ったわけです。

いつの間にか母は老いてヨボヨボになり、今は私が母にお茶を淹れる立場になっている。

それがすっかり当たり前になってしまっているけど、母が「母」だった時は、確かにあった。

でも、あの時当たり前に受け取っていた行為は、今はもう二度と体験できないことになっちゃったんだなって思ったら、なんか急にポロポロと泣けてきてしまいまして。

ものすごく大事なものを粗雑に扱っていたことに気づいて愕然としているというか。

お茶を淹れてもらう、そんな何気ないことの奥にあるものって、優しい心だったって。

幸い母はまだ生きてますし(←イマココ。大事w)もうお茶は淹れてくれませんが、生きていると言う存在そのもので、まだまだたくさんいろいろなものを私に与えて続けてくれているんです。

ので、生きているもの同士が体験できることを一つ一つ味わっていこうと思い直してます、本当に。

それにしても、お茶もコーヒーも昔は「薬」だったと言うし、日本における茶道の一期一会、日々是好日とか、お茶を淹れるって本当に奥の深いことなんでしょうね。

そうそう、今朝は、美味しいバウムクーヘンと一緒に静岡の新茶を島民の真美さんが”おもてなし”してくれました。

こういうのは、当たり前の日常ではありません。

非日常のハレの日です。

うれちぃ。