先月末のことですが、92歳の母が特養(特別養護老人ホーム)に入りました。
手元の記録を見ると、母の介護は2016年初めから緩やかに始まっていたようで、ということはつまり、かれこれ8年以上もの間、私は母のことを気にかけながら生活していたことになります。

って、
は、は、は、はちねん??!!

この事実に、今私が一番驚いています。驚。

母の介護は、私と兄、そして義姉でシフトを組んで担当していたのですが、
東京と逗子の2拠点を調整する中での時間の捻出や調整は、私にはかなりストレスでした。

母の体力は90歳を過ぎてからますます低下しまして、身体を起こすのにも時間もかかり、力も必要になり、誤嚥に気をつけての食事の世話含め正直かなり限界でした。
 
限界なのに、限界と気づけない。
むしろ限界だと認めようとしないのは一体何だったのでしょう。
 
最初に音を上げたのは兄より先に私で、兄に正直な自分の気持ちを伝えたところ兄も我が思いを振り返ったようで、最後は兄が決意して申請してくれました。
入所先は思いの外すんなり決まり(92歳、要介護5なら当然か?)、あとは最終的な健康診断結果を待つのみとなりました。
すると、自宅での世話はもう無理だと思いながらも、施設に預けることへの母への申し訳なさや罪悪感が改めてわいてきちゃいましてね。。。
 
そんな折、たまたま鈴木秀子先生にお会いできまして、このぐちゃぐちゃした気持ちについてご相談したんです。
 
すると、先生は

自分で出来ることには限りがあることを知ること。

自分の気持ちに振り回されないこと。

お母さんにとっては、規則正しい環境で身の回りをケアしてくれる人が常にいる安心感も大事なこと。

母の存在は、ケアを仕事にする方にとっても意味があること。

などなど、起きている出来事を全体としてみることの重要性について丁寧に教えてくださいました。
 
そうして入所が本決定した時の私ですが、 
(子育て含めた家族のお世話から)やっと自由になれることへの凄まじいほどの解放感と、母との関係が変化することへの一抹の寂しさなど、
いろんな思いが全部一気に押し寄せてきて、心は歓喜しているのになんだか寂しくて号泣するという、超絶複雑な感情でもみくちゃになりました。
 
でも、その荒立っている感情の奥をもう少し丁寧に見てみると、
ただ母と穏やかな時間を共に過ごしたいという願いがあるだけなんです。
 
今までは、母と共にいる時間は、やらなきゃいけないことに追われて心も態度もとげとげして、ゆっくり過ごす時間はなかった。

これからは、母と一緒にいるだけの何気ない時間を贅沢に過ごしていきたい。

そのために素直に人に頼り、助けを借りたら良いだけのこと。

そう思えたらスッキリしました。
でも、親の介護に関わらず、子育てや他のことでも、なぜか一人で頑張ろうとしてしまうときって、誰にでもあると思うんですよね。
でも、必要なら、どんどん人を頼っていけばいいんですよね。
 
先日、母に会いに行ってきました。
元気そうな姿に、安心しました。
 
最後まで聴いてくれて(読んでくれて)ありがとうございます。
聴いてくれる人がいることで、私の気持ちも改めて整理されたように思います。

写真は、2月の連休に仲間と訪れた箱根での、早朝の芦ノ湖の様子です。
降り積もった雪、湖から立ち昇る水蒸気、モヤから差し込む淡い光、その全てが美しかったです。