
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、実は92歳の私の母が人生最期のトキを迎えようとしています。
施設で体調を崩し、病院へ移ったのが2月3日。
入院先のお医者さまから母の状態についての詳細説明を受けて、最期を看取るために自宅へ引き取る決断をしたのが2月13日。
そして2月26日、母は長年住んでいた自宅に無事戻ってきました。
それから3日が経った今日、この一連の出来事を振り返って思うことはたくさんあるのですが、しみじみ、本当にしみじみ良かったと思っていることは、
「聴く」ことを学んできたこと。
これに尽きます。
まず、母の状態について病院でお医者様から説明を受けた時のこと。
母の身体の状態についてCT写真や貧血値の推移などを見せながら説明してくださるんですが、核心部分(余命がどれくらいなのか)については絶妙に遠回りな表現をされるんですよね。オブラート50枚くらいに包んだような、というか。
なので、情報だけを “聞いて” いると、先生が一体何を言いたいのか、ぼんやりして掴みにくいんです。
でも、先生の言葉を注意して ”聴いて” いると、それが鮮やかに浮かび上がるように見えてくるんです。
余命いくばくもない母の最期をどのように過ごさせてあげたいのか。
看取りをどうしたいのか。
何をどう決めても必ず後悔はついてくるもの、だからこそ「もし自分だったらどうして欲しいか」を基準に決めること。
決して無理はしないこと。
などなど。
聴くとは、相手の話の情報部分だけでなく、その下にある、話し手の願いや思いを受け取ること。
「聴く」を学ぶ中で、人は何かを話す時、その奥には必ず伝えたい “想い” があるということを、私は嫌と言うほど気づかされてきました。
今回、お医者さまは、医学的な情報を伝えながらも、医師としての願いや思いを確かに伝えてくださっていました。
だからこそ、というか、こんな非常事態だったからこそ、私は真剣に先生の話を “聴いた” ような気がします。
そして、自宅に迎えた今、母はひたすらずっと寝ています。
帰宅当初は、お水や栄養ゼリーを意識的に与えようとしていたけれど、どれもほとんど取らなくなりました。
そして、看護師さん曰く「これからは、栄養も水分も無理に与える必要はありません」とのこと。
となると、私にできることはもう何もなくなるんです。
ただそばにいるだけ。
そうは言っても、その “手持ち無沙汰感” がいやで、(自分が満足するために)何かしたくなっちゃうんです。
でも、「聴く」とは、何もしようとしない、相手にただあるがままのその状態に寄り添うだけ。
あぁ、これが「人に寄り添う」って言うことなんだなぁって思っています。
相手のあるがままを受け入れながら、ただそばにいるだけでいい。
それが、人と関わる上での一番大事なこと、なんですね。
母は、たとえそれがどんな人生であれ、「生きる」ことを通じてたくさんのことを私に教えてくれる、最高の存在です。